【水谷文貴の場合】





「戻れ、クソレフト」
「え、あ、あ、水、谷?」
水谷を見つけると、栄口はばっと阿部から離れた。阿部はちっと舌打ちして、水谷を睨みつける。
「いや、え、ごめん。ちょっと浜田に借りてたCD取りに来ただけだから」
水谷はなるべく二人の方を見ないようにした。

(なんで俺謝ってんだよ)
(だって、栄口顔真っ赤にしてるし、阿部はめちゃくちゃ睨んでるし。これってあれ?なんか入っちゃいけない雰囲気ってやつだったんじゃないの?)
(でも、栄口座ってるの俺の席だし。てか、ここ教室だし。声かけるしかないじゃん!)


声にできない言葉だけが頭の中を巡っていく。
きっとこれは見て見ぬふりをするっていうのが、世渡り上手ってやつだ。
「CDやっぱ、後でいいから……」
「おぉ」
くるっと背中を向けて水谷が戻って行くのを横目で確認してから、阿部が再び栄口の頬に触れようと手を伸ばすと、栄口は身を引いて俯いた。
「えっと……」
「…………ったく」


栄口に聞こえないように呟いて、阿部は下唇をかんだ
(アイツのせいだ)


水谷が来たせいで、栄口はここが二人っきりじゃなくて教室だってことを意識しちまった。
俺は別にそんなの気にしないが、栄口は気にする。
そんな栄口がさっきまであんなに乗り気だったのだ。
水谷のせいで千載一遇のチャンスがふいになったと言っても、言いすぎではない。


「おい、クソレフト」
教室を出て行こうとしてる水谷を阿部は呼び止めた。
「呼んだ?」
水谷はゆっくり振り返った。
「ちょっと、こっち来い」
「なんだよー、行けって言ったり来いって言ったりー」
栄口もきょとんとした目でこっちを見ている。文句を言いながらも水谷は戻って来た。
「あっち向いて立ってろ。」
「え?」
「いいから、立ってろ」
「どのくらい?」
「しばらく」
「なんで、俺が?」
「数学の宿題写させてやったろ」
「えー!」
「今度の期末は一人でやれ」
「えー!無理!!」
「じゃ、あっち向いてろ」
阿部が反対側の教室のドアの方を顎で示した。
なんのためにだよー、と言いながらも水谷は机の横に阿部と栄口に背を向けて立った。そうすると、一番窓側の後ろにある阿部の席は、教室の死角となる。


阿部は口の端を上げて笑った。
「耳貸せ」
机に両肘をつくと、栄口も同じように机に肘をついて顔を寄せてきた。
「これで大丈夫だろ」
栄口にしか聞こえない声で阿部が囁いた。


二人の額の距離は5センチ。

栄口にも意味することが伝わったらしく、顔を真っ赤にさせてしばし目を泳がせてから首を縦に振った。

三度目の正直。

阿部は栄口の左頬に触れた。するとその手を栄口がそっと包みこんで、そのまま阿部の右の人差し指を自分の唇に触れさせた。




クラスメイトの視線が痛い。
友達と話しながらみんな俺の方をチラ見してくる。
一番後ろの端の席だからって、一人で立ってたら目立つことこの上ない。


「水谷、なにしてんの?」
「さあ……いつものじゃねぇ?」
「ああ、いつものかぁ」
「でも、水谷君もなんか微妙な顔してるよ」
「気になってんなら、聞いてこいよ」
「ムリムリムリ!だって、いつもの阿部君命令でしょ。聞けないよー」
「阿部だしなー」
「まぁ、水谷だから大丈夫だろ」
「うん、そっとしとこうぜ」



(聞こえてんだけど……!)
クラスメイトの視線と共にささやかれる話は、意外と本人まで聞こえてたりする。
クラスメイトの誰かが声をかけに来てくれたら、阿部の暴走も止まるのに。
後ろの二人に自分が声をかけるなど、そんな自殺行為できるわけがない。
背中に感じるむず痒いオーラのせいで、肩越しに見ることだってできない。


阿部の暴走を唯一止められる存在の栄口だったのに……もはや暴走を加速させる存在になっている。


それにしても「いつもの」って何?
野球部ならまだしもクラス内でも、阿部のイジメって黙認なの?
そんなの、そんなの、そんなの…………ずるくねぇ?



こうなったら出来ることは、我らが野球部主将の帰りを待つしかない。


(はーなーいー、早く戻ってこいよー!!)

テレパシーとかマジ使えたらいいのに。

坊主頭を待ちわびながら、教室のドアに向かって声にできない願いを胸の中で力いっぱい叫んだ。