【花井梓の場合】
イヤというほど聞き慣れた声。 阿部は声の降り注いできた方向を見上げた。そこには案の定、 「花井…」 我等が野球部の母、180cmの坊主頭が立っていた。 「あれ、花井だ。どーしたの?」 気付いた栄口が、ボンッと一瞬で顔を真っ赤に染め上げて、あははと作った笑いを浮かべながらスッと身体を引いた。触れていた柔らかさがするりと逃げる。 (あー、クソ!) 折角だったのに、という心中の毒づきそのままに、阿部はその垂れ目に目一杯の剣呑を載せ、デカ坊主を睨む。 う、と一瞬たじろいだそれは、しかし、次に踏み止まった。 「それはオレの台詞だっつぅの」 はぁぁと溜息を吐きながら、きょろりと栄口の顔を覗き込む。 「え?え?何?」 「や、どーかしたのかと思って」 阿部が頬を触っていたことの、逃げ道を作る気らしい。花井らしい、栄口に対する配慮だ。 そうしてチラと阿部に対しては牽制の一瞥が飛んでくる。 何やってんだお前は。栄口追い込んでどーすんだよ。とでも言いたげに。 (やろぅ…) 解ってンよ、んなことは! (それでも可愛いんだもんよ!しょーがねぇだろ!!) 阿部はギリと奥歯を噛み締める。栄口を前にして、余裕なんざ持てた例がない。 「あ、えっと、何かついてたみたいで。ね、阿部、もう取れた?」 振られてハッと顔を上げる。先まで阿部が触れていた右の頬を自分の手で触れながら、栄口がぎこちない笑顔で見つめてくる。 こんな顔、させたいわけじゃない。 「ああ。もう、取れた」 ぎゅっと拳を握り締める。その台詞で、2人が緊張を解いたのが見えた。 (まだまだ…ガキだってことか…) ま、解ってッけど…。 それでも。 それでも! (絶対譲れないもんってのは、ある) 「え?それで花井はどーしたの?メシ9組で食うんじゃなかった?」 いつもの調子を取り戻した栄口が、いつもの顔で花井に声を掛ける。 それに、いつもの顔の花井が答える。 「ああ、メシは食い終わったんだけどな。田島が5限当たるってんで、これ」 持ち上がった右手には、数学のノートが1冊。 「あー…なるほど…」 「予習なんざするわけねぇしなー」 「田島だしねぇ…。ご苦労様です」 西浦野球部の母こと花井と、良心たる栄口は、基本、気苦労の持ち方が一緒だ。だから、お互いに解り合ってる部分があるらしく。 苦笑いを浮かべて、栄口がひょこりと頭を下げるのに。 「いやいや、栄口こそ大変だろ」 花井も改まってぺこりと頭を下げる。 「オレは全然だよー」 ニコニコと笑う。可愛いなーと思う。絶対ヤバい。 (マジ、余裕ねぇー…) 2人の会話など上の空、阿部がどうにかこうにか色々と納まりを付けんと内心奮闘しているトコロに、 「や、それにしても」 変わった花井の声音が滑り込む。 「栄口の弁当、豪華だよな」 「え?ああ、これは阿部家の母作だよ」 「え?だからこっちだろ?」 「え?」 栄口の声が変わったところで、阿部は目線をついと動かした。 阿部の前に広げられた弁当箱を指差す、花井の大きな手が見えた。栄口の手作り弁当は、確かにこっちだけれど。 (何でそれ、知ってんだ?) 普通なら、栄口の前にある弁当を指して使う台詞じゃないだろうか。 目の前で、栄口が困惑した顔を花井に向けている。阿部もジロリと垂れ目を投げた。 「あ、いや、その…悪ぃ、朝の、聞こえた」 二人分の視線に晒されて、180cmがどもる。可愛くねぇ。 「あ、そか…」 目の前で栄口が、再び染まりあがって俯く。可愛いなちくしょう。 (てか…) 花井ぃぃぃ…!! (てめぇこそ追い込んでんじゃねぇぇぇ!!!) ぎりりと剣呑を視線に載せると、狼狽は解っている風にアレコレ思考して。 「や、でも、ホント、すげぇよな。このだし巻きとか、ホント、ウチのより絶対うまそうだもん」 上手いところをつく、と、阿部は思った。 今日の一番の自信作なのだ、このだし巻きは。 「や、それはないよー」 やはりというか、ばっと持ち上げた謙遜は謙遜になってない。顔がにこやかだぞ、栄口。 「いや、マジで。元々器用なんだよな、栄口って絶対」 「えー!?いや、料理とかって慣れだからさぁ」 「でも、卵料理って難しいんだろ?ウチの妹たち、2人でぎゃーぎゃー言ってるぜ」 「あー、でも、うん、今日のはちょっと上手く出来たんだよね」 漸くそこでうんと頷いた。それに、花井もうんうんと頷いている。 基本、栄口は難しいのだ。褒められることに慣れてない。向けられる好意にも。だから、全力で叫び、抱き締め、宥めすかして、そうして漸く手に入る本音。 阿部はこう見えて意外と必死だ。常に全身で恋を叫んでいる。この恋火で焼き尽くして漸く、栄口の奥底に触れる権利を持つのだ。 (ま、知ってんのオレだけってのは、イんだけどな) ニヤリ、口端が上がらんとするのをぐっとそれこそ噛み締めて耐えていると。 「食べる?」 とんでも台詞が横っ面を張った。 「へぇっっ??」 「はぁぁっっ!!!??」 頓狂な音声がハーモニーを奏で教室中に響く。…綺麗なこと言うてる場合か! 「何でそうなんだよ!」 「え!?だって、上手く出来たから…」 「だからって、これはオレのだろ!?」 「いーじゃん、一個くらい!!」 阿部のケチー、と目の前で丸い頬が膨れている。ああもうそれも可愛いな、てか、狙ってやってんだろ絶対!オレがそれに弱いのを知っていて。 (はぁなぁいぃぃぃぃ!!!) ぐわっっと全身で怒号を叫びながら、隣を睨みやる。解ってる解ってる、と、坊主頭がうんだと頷いた。 「あー栄口、ごめん、折角なんだけどさ、オレ腹いっぱいで。ありがとな。また、別の機会に」 早口で捲くし立てる。よし、いいぞ花井。やっぱお前は良く解ってる。 栄口はこういう場合、ちゃんとした理由を付けて断ると無理強いはしない。 「え?そう?」 「おお。次は絶対もらうからさ」 「そっかー…」 茶色い丸頭が、しょんぼりと項垂れる。 それに、花井の困った顔が阿部へと向けられた。 傷つけたか? 無言で振ってくるのに、心配ねぇよと頷いてから。 「オレが食うからいいだろ」 阿部はその短髪に手を伸ばした。くしゃりと撫でると、大きな目だけがちょいっと持ち上がる。上目遣い。だからお前それ、絶対狙ってるよな? とはいえここで、こっちが崩れるわけにはいかない。ぐっと腹の底に力を入れる。 じっと待つ、それに漸く 「だって…」 天岩戸が静かに開いた。 「だって?」 「折角上手くできたからさ…」 少しずつ零される、小さな小さな本音。 ああもうだから。 「だからオレが食うんだろ?」 阿部の台詞に、きょとりと顔が上がる。 「え?」 「だから」 頭部を撫でていた手を、そのままするりと滑り下ろし、再び柔らかな頬を包む。 「お前の作ったもんは全部、うまくいったもんも、たまぁぁに失敗したもんも、全部オレが食うっつってんの」 帰ってきた触覚を楽しみながら、指先で遊ぶ。 真っ直ぐ見つめてくる大きな目の目尻をこしょこしょとこそばして。 「オレだけが知ってれば、良いだろ?」 見つめる。紅茶色の瞳が揺れる。それをただ、受け止める。 お前のことは、オレだけが知ってればいい。オレだけしか知らなくていい。 「あ、べ…」 ゆらり、目の奥で恋火が揺れる。とろり、必死で隠す囲いが溶ける。 それでいい。ここに来い。 お前の全ては、オレのモノだ。 ぐっと触れる手の平に力を込めると、目線を一切動かさないまま、そろりと栄口の頭が動いた。促すように指先で囁くと、ゆっくりと綺麗な茶目が近付いてくる。 それに、口端を上げて。 阿部も迎え入れるために、ゆっくりと上体を前へと倒していく。 もう少し。あと少し。吐息が掠める。大きな目を象る目蓋がそっと落ちていく。なんて絶景。 目一杯味わってやる、と、唇を開いた、その瞬間。 「待たんかぁぁぁぁぁぁぁいっっっっ!!!」 栄口のためだ、落ち込ませてしまったままではイカン、頼むぞ阿部、と、二人の世界と外界との境界として必死に徹してきた180cmの壁の臨界点突破は、フロア中に響き渡ったという。 「お?あれ、花井の声じゃね?」 「田島、今、行っちゃダメだよ。死ぬよ」 「えー?何でだよ水谷ぃー!?面白そうじゃん!」 「面白くないから!!」 「阿部か…」 「い、泉…。か、顔が怖いって。三橋が怯えてるから、な?」 「…!!!!!」 |