【吐息の温度】





一人は侘しい。

 厳しい冬の朝は、尚更一人でいたくない。
 人恋しいなんていう生半な感情が芽生えてしまったのは、ほんの少し前まで一緒に住んでいた奴のせいだ。
 俺よりほんの少し早めに起きてバスルームを使うから、俺の時にはちょうどよく温まったお湯が手に触れる。独りになった後、一度何も考えずに顔を洗おうとして、出てきた水の余りの冷たさに凍傷にでもなっちまうんじゃないかと思った。

 当たり前だけど、一人暮らしだと水は冷たいままなんだな。

 身を切るほどの冷水がお湯に変わるまでのタイムラグが辛くて、起き出すのが一層億劫になった。温かい布団の中からあの苦行まで、例えばここから万里の長城までとか、ここからビッグベン、ここから自由の女神、ここからカッパドキアくらいの距離はある。絶対ある。

「あああ、くそっ」

 声で気合入れて、掛け布団を跳ね除ける。そうでもしなきゃ、朝っぱらから気持ちが急降下して地を這い回り始めそうだ。
 後ろめたさの中で丸くなっていたって、いつまでたっても誰も起こしに来てくれない。「時間だぞー」という暢気な声も、容赦なく掛け布団をはぐ手も、報復の為にベッドへ引っ張り込んでやろうと構えた手をすり抜けるすばしっこい身体もない。

 だいたいなぁ、あいつが一緒に住もうって言ったんだぞ。
 当の本人が、たった1年で出てくってのはどういうことだよ。

『条件にぴったりだけど、問題は二人用ってことなんだよね。ね、阿部どう?』

 あれに頷かなきゃ、俺だってこんなにはなんなかったんだよ。
 自分で作る飯にも、一人で何もかもする生活にも、話し相手のいない時間の過ごし方も、とっくに慣れて問題なんかなかったはずだ。おまけに、二度寝なんていう悪癖までついてしまってペースが乱れて困る。これも、目覚まし代りがいたせいだ。

 自室を出て、カーテンを引いたままのダイニングと温もりの欠片もないキッチンにため息が出る。当たり前だろ、とでもいうかの様に口元から洩れた吐息は冷たく濁って見えた。


***


 まさか就職して二年目で海外勤務になるなんて思いもしなかった。
 外資系の旅行会社に勤める限りいつかはと覚悟していたが、まだぺーぺーの俺がそのまんまカナダに飛ばされるとは。

 来る冬季オリンピックに向けて日本人旅行者の増加を期待してとの事だったが、いざ来てみればワーキングビザを持った日本人正社員は俺一人きり。前任者の引継ぎを一週間で済まされた後は、限りない自由度の代りに背負った責任の重さも果てしなかった。
 なりふり構わず、海外特有の大らかさで蔑ろにされていた煩瑣な問題に手をつけ、日本人向けの新しいプランを立ち上げ、そうこうしている間に四ヶ月が過ぎ、新しい年を迎えていた。
 仕事の成果はまだわからない。きっとこの冬を越して、通りのリス達が顔を出す頃になればれっきとした数字として現れてくるだろう。
 自分は、書き入れ時にものんびり代わり映えのしないこのオフィスでのカンフル剤として期待されているんだと思う。結果はもとより、外国人である俺が成績をあげることで全体的に活性化させようという、そんな意図を感じていた。
 長期出張みたいなもんだ、オリンピックが終って落ち着けばすぐに東京へ呼び戻してやる、なんて上司の言葉をそっくり鵜呑みにするほど世間知らずじゃない。

 あー頭いてえ。

 都市部から車で三時間。
 完全に日常から切り離されたウィンターリゾート地であるここに、それ以上の娯楽は皆無だ。夜になればバーしか開いていない。人間関係や人脈がものをいう仕事柄、毎週末誰かと安いアルコールを煽ることになっていた。そのせいで土曜の朝はいつも最悪の目覚めだ。

 もうちょっと我慢、我慢我慢……。

 本当に、今はそういう時なのだ。山積していた問題にはだいたいの見切りをつけた。勝負はこれから。ここを乗り越えれば絶対うまく行く。勝算はあるんだ。それなりの実績を出して日本人向けビジネスを始動させれば、サポートも付いて日本への異動申請も受け入れられやすくなる……、はず。

 ぽっかりと開いた視線の先で、吐き出した溜息が白んできりきりと空気に溶けた。

 去年までは、口うるさい同居人がいたおかげでどんな状況でも玄関にさえなだれ込めば何とかなったんだ。

『あべー、きもちわるいい』
『だっからちゃんとセーブして飲んでこいって言ったのに、ほらコート脱げ。危なっかしいなお前。
 いいから片足あげろ、脱がしてやる。ほら、反対も』
『ううう、はくかも……』
『こら待て待て待て、今連れてってやるからちょっとだけ我慢しろ』

 貸された肩は温かかった。頼り切ってもびくともしない強さに心底安心した。親友と言うより、兄や弟のようだと思った。遠慮のないやり取りにひやりとすることもなく、口さがない正論やお小言にもなるほどと素直に頷けた。ただの友人とはいえないほど近くにいたんだ。

 帰りてぇ。

 呟きは、真っ白な煙になって空気を割いた。瞬きさえ凍りつきそうだ。

 あべー、早く帰りたいよ。阿部ー。

 他人でも家族でもない、どっちつかずの関係は何より心地よかった。
 春に帰国が決まったとしても、実際帰れるのはその数ヶ月後だ。それまで阿部が、余分な家賃を払ってまであの部屋へ居続けるとは思えない。そうでなければ、新しいルームメイトが入ってるはずだ。
 帰国した所で元に戻れるはずもないことはわかってる。それでも、帰りたい、そう思いながら胸中に思い浮かべるのは懐かしい故郷じゃない。いつもあの古びたアパートだった。


***


【日本標準時 AM8:40 日曜日】

 顔を洗って歯を磨き、食パン2枚と耐熱プレートに乗せたハムとたまごをトースターにつっこむ。それからインスタントコーヒーの入ったマグを持って、パソコンの前に座った。電源を立ち上げている間に新聞を広げる。
 あいつの好きなチームが春季キャンプを始めたという記事が目に留まった。自然と口元が緩む。

 これ聞いたら、また羨ましいって騒ぐんだろうな。

 栄口のいる所では野球より、アイスホッケーやバスケットボールが幅を利かせているらしい。毎日のように野球報道のある日本とは異なるその環境をいつも嘆いていた。

 焼けたトーストをかじりながら、メールソフトを開く。
 どんなに忙しい平日の朝も、疲れて惰眠を貪りたい休日の朝も、ここからいつも一日が始まった。

『件名:無題

 本文:ばっかだな、目覚ましもう一個買えばいいのに。
     7時にモーニングコールなんて無理、仕事中。
     5時でもいいなら昼休みにかけてやってもいいけどね。
     阿部こそちゃんと朝飯食えよ。パンと牛乳じゃ身体持たないぞ。
     それから、本とか出汁のもととか送ってくれてありがとう。助かった』

 面倒になって和食からパン食になってしまったことさえ見抜かれてる。じわじわと浮かんでくる笑いをこらえながら、返信を打つ。

「件名:無題

 本文:走りに行くから5時でもいい。掛けてこい。
     朝飯もちゃんと食ってる。
     お前の買ってきたやつ、トースターに突っ込むだけだしすげえ役に立ってる。     
     他にいるもんあったらいつでもメールしてこい」

 このまま送ろうとして、最初の一行を消した。代りにプロ野球のキャンプ情報を加えてやる。
 毎日の短い文面と二度あった国際電話で、栄口がどれほど多忙な日々を送っているか予想はついていた。掛けてきてくれと言えば本当に掛けてくるであろう栄口の負担にはなりたくない。
 送信して、パソコンの電源を落とす。

 パジャマのまま、ソファに身を預けてぼうっと天井を仰ぐ。コーヒーから立ち昇る湯気が綺麗な螺旋を描いていた。

 おい、お前がいねえと時間が長えよ。

 帰国を望んでんなら、回り道もよそ見もすんな。最短距離で帰って来い。ちゃんとお前の部屋、そのまんま残してんだからな。
 からっぽになったマグをテーブルに投げ出して、ぐっと背筋を伸ばす。

 今日の練習は、午後からだ。その前に目覚まし時計でも買いに行こう。
 そう、例えば二つの都市の時刻を表示できるタイプのものだとか。


***


【カナダ太平洋標準時 PM11時 土曜日】


 自宅に帰り内側から鍵とチェーンをかけたら、ほっとして力が抜けた。慣れない生活にいつも気を張っているからだ。
 移民の多いこの地域での暮らしに不自由はなかったが、それでも勝手の違うことは多い。雪でがちがちになったブーツを脱ぎ捨て、裾を払って、荷物をソファへ放り出せば知れず安堵していた。
 レンジにかけたホットミルクを手に寝室へ入る。
 休みは水曜日と日曜日。今日も顧客と社員両方からの引っ張りだこに耐え、なんとか予定通り仕事を終えることが出来た。勿論仕事終わりの一杯も忘れずに。このところ打ち解けてきた同僚とのふざけ合いも悪くはないものだった。

 ベッドの上でノート型パソコンを開いて、メールソフトを起動させる。
 いつも、このちょっとした間が一番の楽しみだった。
 受信箱の横に括弧でくくられた数字を発見して、ゆっくりと息を吐く。このプライベートのアドレスを知っているのはほんの数人しかいない。それも律儀に毎日受信箱を埋めてくれる奴なんて一人しか知らない。
 液晶の下で堂々と並ぶTakaya Abeの文字に思わず苦笑いが洩れた。いい年して、彼女どころか同性の友人のメールを毎日心待ちにしているなんて誰にも言えやしない。

「役に立ってるだって。やっぱりな」

 どうせすぐに簡略化されていくであろう阿部の食事を憂慮して、トースターにそのまま入れられる耐熱式プレートを買っておいてやったのだ。新聞読みながら、たまご焼きをのせたトーストにかぶりつく姿が目に浮かぶ。

「野菜も食えよ、ちゃんと。
 あと、ルーキーの詳しい情報も頼む……っと」

 阿部からのメールは短い。短いくせに、文面の一つ一つがいかにも阿部らしくて、いつまでも変わらない距離感が疲れを癒してくれた。

 本当はさ、キャンプ情報なんか検索すればいいんだ。
 荷物だって、家族に頼む事だってできた。

 変だよなー。甘えてんだよな、俺。それもあの阿部に。いや、笑っちゃいけないけど、やっぱり笑ってしまう。だって、もし泉とか水谷がこんなこと知ったらきっと大笑いの大騒ぎだよきっと。

 変だよなあ……。


***


【日本標準時 AM7:30 月曜日】


 いつものように栄口のメールに返事を返して、家を出る。

 こんなやり取りも、もう4ヶ月になる。その間、一度だって切れたことはない。少なくとも自分からこの日課を降りるつもりはなかった。一日だって逃がさないように、パソコンから携帯電話へ転送させるほどの念の入れようだ。
 最初にあった、なんでこんな必死になってるんだ? とか、あれ、俺ら変じゃねえか? みたいな違和感も受信メールが増える毎に薄くなって、その内何も思わなくなった。
 無理をしているわけではない。心地いい距離感がたまたまそうだっただけだ。自然とそうなった事にわざわざけちをつけることもない。

 時間を気にしながら早歩きで駅に入り、目に映る何もかもが慌しく騒然としているのにうんざりして目を閉じた。腹からたっぷりと時間をかけて息を吐く。

『あれ、しまった!』
『どした?』
『阿部、やばい。SUICA見つかんない……次乗んなきゃ遅刻なのに』
『ちゃんと見たか? 内ポケットは? 鞄は?』
『見たけど。あーとにかく切符買ってくる!』
『待てって。今朝絶対どっかで見たぞ。お前がコート着る前で……ああ、ここだ。ほら』

 一緒に暮らしているときは、自然と時間が合ったから共に改札をくぐることもあった。関東一円の営業所を回ることも多かった栄口とは上りと下りで分かれることもあったが、それでも昔みたいに肩を並べて息せき切って駅へ駆け込むのは悪くはなかった。

 あの時も、今と同じ様に息苦しかったのだろうか?
 まるで別物のように思えるホーム上でする長息は、昇華できないほどに苦々しかった。
 栄口の住む街は、日本から遅れること17時間。時計の針をマイナス5時間して、午前と午後をひっくりかえせばいい。

 あいつは、まだ日曜日の中にいるんだな。

 同じ時間軸の中にいないという事に、不満として直面するのは初めてだった。
 願わくば、栄口の“今”がどうか安らかなものでありますように。誰とも知れず心の中で呟いて、もしそうなら俺も耐えられるのに、と思った。


***


【太平洋標準時 PM2:45 日曜日】

 道幅が広いとはいえ、厳寒期の山道――それもとびきり峻険な山脈の足下を走り抜けるのは緊張する。雪道には慣れていないのだ。
 なんとかダウンタウンまで下りて車をコインパーキングに入れ、とりあえず借りていた本を返そうと図書館を目指す。特徴的な建物の中はどこか静かな活気に充ちていた。

「アベ!」

 はっとして振り返る。
 一見して日本人留学生だとわかる数人の所へ誰かが走り寄るところだった。

「遅いよ、ヤマベ。もう席ないかもしんねえじゃん」
「わりー」

 ほっとして息をついた。
 アベなんて名前はどこにでもあるし、ここは日本人も多い。何よりあの阿部は絶対ここにはいない。頭でわかってるくせに、一瞬時間を引き戻されるような気がして呼吸が止まった。阿部と、三橋や田島、泉に水谷、みんなと過ごした濃密な時間は何年経っても新鮮で懐かしく生々しかった。
 返却の為の列の最後尾に並びながら、眩しい思いで自分よりいくらも若いと思われるヤマベ君とその友人達の輪を見送った。

 本を返却し、今度は借りるべく必要な本を持ってカウンターへ向かおうとした所でパソコンコーナーの横を通り過ぎる。そこで、ふと阿部の顔が浮かんだ。何故だかはわからない。ほんの数時間前、いつものようにメールを返したばかりなのに、それでも何となくもう一度メールをチェックしようという気になった。

「あ……」

 本当に来ていた。

「件名:無題

 本文:毎朝すし詰め状態はつらい。お前、いつまでそっちにいんの?」

 本日二通目の阿部からのメールはそんな内容だった。
 少し首を傾げる。すし詰めは電車通勤の事を言っているのだろう。いつまでって、そんな事は栄口自身だって知りたい話だ。
 「つらい」と「いつまで」の文章の間に語られないたくさんの言葉が埋まっているような気がして、慎重に返す言葉を選んだ。


***


【太平洋標準時 AM8:00 月曜日】

 いつもと変わりのない朝だった。
 弁当を作り、朝ごはんを食べ、走れば何とか間に合うという時間ぎりぎりまで部屋へ居座った。家を出る時、正直笑いがこみ上げてきてたまらなかった。苦笑、というやつだ。

 馬鹿だな、その程度のことだろ。

 何を期待していたのか。言葉に出さず阿部も同じ気持ちでいたのではないかと考えていた自分の思い上がりに笑うしかなかった。


***


【太平洋標準時 PM7:00 火曜日】

 今日はどうしても外せない用事があるからと、同僚の誘いもビジネスパーティーも辞して一直線に帰宅した。買い物をしてご飯を作るという事さえわずらわしくなって、夕飯もテイクアウトを買ってきた。荷物を放り出して、暖房をつけるより先にパソコンの電源を入れる。

「……やっぱり」

 呟きながら、顔が強張ってるのがわかる。どんな表情をしていいのかさっぱり見当もつかない。今日は一日中何も手につかなかった。仕事魔だといつもは揶揄する同僚に、パーティーは俺が代るから、さすがに今日は家へ帰った方がいいと真剣な顔で言われ素直に頷いた。

 何かに追い立てられるように帰ってきたのに。

 認めたくはないけど、日曜日の午後に受信したメール以降阿部から連絡がない。
 初めは、そういうこともあると思った。きっと明日になれば、うっかりしていた、とか、時間がなくて、だとかそういう言葉が送られてくるのだろうと思っていた。一日も欠かさないこのやり取りを阿部も楽しんでくれているのではないかなんて、酷い自惚れだったと反省さえしていた。

 でも二日目だ。
 阿部は強引な所もあるけれど、決して薄情じゃない。時間がなければないなりに、その旨を知らせてくれるはずだ。

 ……何で悪い想像ばっかりしてしまうんだろ。

 たった二日なのだから、大したことはないと思うのに、それでも胸騒ぎは隠せなかった。


***


【日本標準時 PM7:00 水曜日】


 ぼんやりと天井を見ていた――ら、これだ。

「あーーーべぇーーー」
「生きてるーーー?」
「あーーべーーー」

 起き上がるのもかったるいのに、チャイムとノックの連打を受けて、苛々しながら扉を開けた。あの気の抜けた声は間違いようもなく。

「うっせえな、クソレフト!近所迷惑だろが!」
「ほらな、やっぱ生きてんじゃん」

 寝込んでいたせいで軽い眩暈を感じながら扉を開けると、そこにいたのはむさ苦しい男四人。相変わらず冷静で辛辣な口調の泉と、卒業して何年もたつのに酷いと嘘泣きしている水谷に、買い物袋を掲げたお目付け役花井と巣山。
 これだけいんなら、誰か水谷を止めろよと溜息をつきながら、全員を招きいれた。


「だいたい何しに来たんだよお前ら」

 花井と巣山が目を合わせる。だって、なあ、と声を合わせてきょとんとするのに、手前にいた泉が鋭い目でこちらを射抜いた。

「栄口がさ」

 ああ、と思う。

「お前から定期連絡がなくて心配してるって」
「東京組みんなに連絡入ったんだよね。時間空いてたらでいいから、ちょっと見てきて欲しいって」

 まるで双子みたいな自然な動作で、泉の言葉を水谷が引き継いだ。へらへらした態度が嘘みたいに水谷がじっと目を見てくる。その奥で、巣山が気遣わしげにちらりと視線を送った。
 これは全部、栄口の目だ。そう思う。
 栄口がさせた目だ。俺一人が倒れたってこうはならない。目には見えなくても、俺も含めてここにいる五人の中にあいつがいる。
 ほんと、栄口馬鹿ばっか。

「あーそか、メール見れなかったから」
「阿部、寝てたの?」
「風邪か?」
「まぁな、もう熱下がったしそろそろ飯買いにいこうって思ってたとこ」

 じゃあちょうどよかったな、と巣山が笑う。見に行くついでに阿部んとこで鍋しようと思って、と勝手しったる体で棚から鍋を取り出した。俺がいなかったらどうすんだよと言えば、そん時は水谷ん家と答えられて気が抜けた。まじで俺の心配はしてなかったわけな、知ってたけど。
 もう本題は済んだのか、興を削がれたのか、泉が買ってきた豆腐やら野菜を取り出し始めた。

「つうか栄口に心配かけんなよ。誰か一人でもいいから見に行ってくれなんて、相当パニクってんぞ」

 意外と手際よく巣山を手伝って、白菜をばらしはじめた花井が言う。いや、なんつうか元坊主長身二人が並んで料理ってのも妙な迫力がある。THE 男の料理!みたいな。

「そうだよ阿部ひでえ!
 ……って、あれ? 風邪引いてメール見れなくなったって、どんだけ風邪引いてたの?」
「何日ってか、月曜の朝メールしたきり」

 沈黙。

「はぁっっ!? 月曜? 月曜からメールしてないってお前」
「今日、水曜だから……うわああ」

 大げさに叫ぶ水谷に、泉がうるせえよと釘をさす。ついでに投げられた椎茸が水谷の頭でバウンドしてテーブルに転がった。ナイスコントロール。

「悪ぃかよ」

「呆れるわ、まじでお前ら」
「心配して損した。ありえねぇし」
「さすがに引くわぁ」

 太平洋を隔てた彼の地で栄口がどんな気持ちだったのかなんて、俺は知らない。俺が過ごした二日間を栄口も知らない。
 そしてその間に、誰かに気にかけられて毎日を暮らすというのは決して煩わしいものではないのだと理解した。誰かを気にかける毎日が面倒なだけではないのだということも。

 それで何かが変わるわけもないが、この距離だけはずっと移ろわなければいいと本気で思う。慣性の法則のように、あの春休みに転がり始めた関係がずっと遥か先まで続いていけばいい。

 不意に、野菜も食えといった栄口の言葉を思い出して、振り返った。

「ちょっとシャワー浴びてくっから。野菜いっぱいな」


***


【日本標準時  AM12:30  木曜日】
【太平洋標準時  AM7:30  水曜日】


「Hello. もしもし」
「久しぶり」

 声を聞いたら、言いたかったこと全部まとめて霧散した。
 元より、昨日の内に泉に水谷、花井、巣山からそれぞれメールが来て何があったかは知らされていた。だから、それでいいのだ。大したことがなかったならそれでいい。改めて言いたいことなどどれほどあるだろう。

「悪かったな、メール出来なくて」
「ああうん。 鍋、やったんだって?」
「飯食ってなかったから、あれァ助かった」
「それは良かった」

 いいんだよな? これまでと変わんなくメールしても。
 腹におさめたままの疑問も、居心地のいい間から滲む肯定にかき消された。きっとこんな事わざわざ口にするほうが変なんだ。阿部が迷惑だと思うなら黙って付き合ってるわけないんだから。そんくらいは阿部の事信用してもいい。

「ていうかな、栄口。心配してあいつら寄越すくらいなら、早く帰ってこい」
「…えっと。まあ、努力する」
「努力だけじゃ信用できねえ。約束しろ」
「ていうか、帰っていいんだ? 俺」
「なんだよ今更。戻って来ねえつもりだったのか?
 いいから早く帰って来い。なんとかっていうお前の好きな女優みたいな女連れて」
「うっさい」

 ふと、洩れた笑いが、まだ暖房の効いてない部屋の中でほんわりと綿雲のように咲いた。寒くても、うまく行かなくても、何でも、戻っていい場所がどこかにあるなら踏ん張れる。

「帰るよ、絶対」
「ああそうしろ」

 思ったよりずっと強く響いた自分の言葉に驚いて、栄口は声を出さずに笑った。

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 電話を切って、阿部はベッドの上に倒れこんだ。
 誰も居ない静かな空間がひろがっている。

 もう夜中だ。そろそろ眠らなければ明日の仕事に差し支える。なにせ病み上がりなのだ。そう思いながら目を閉じた。
 自分の腕で光を遮りながら、思う。

『帰るよ、絶対』

 早くしろよ。
 じゃなきゃ、俺が風邪の一つも引けねえじゃねえか。

 一人で過ごす時間は長い、などと言っていたら、病気をして一人で過ごす時間はさらにその上を軽々と越えて行った。
 放っておけば、向こうの方が水に合ってるかも、なんてどこにでも柔軟に馴染んでしまうあいつがそう言い出す前にどうやって里心を引っ張り続けてやろうか。

 おい、お前が帰るより俺が行くほうが先かもしれねえぞ。
 なんせ日本にはゴールデンウィークってやつがあんだからな。